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★坂の上零のコラム 『人間の質と、人間関係の品格について』

「仲良しゴッコ」を心の拠り所にする人間関係の、驚くほどの薄さ
日本では、愛情、友情と『仲良しゴッコ』の違いが分からなくなっている人が増えているようだ。
特に、40歳以下では、一般論だが、仲良しゴッコが友達関係であると誤解している人が増えたように思う。 それだけ、日本社会が不安に満ちているからか、日本人が個人として精神的に自立していない幼稚な人が増えたからなのか。
いずれにせよ、友情を、仲良しゴッコにしてしまう精神性や心理は、日本独特の怪奇現象である。
プライベートで、仕事で、自分がよく時間を過ごす友人5人の平均収入が、自分の収入となる。世の中は、同じようなレベルの人同士が集まる。 個が自立している人は自分で勝負できる力があるから1人を好み、「仲良しゴッコ」をしたりして、人と不必要に群れないものだが、 世間一般の小市民、すなわち、小者や小粒な人間ほど、同じレベルの小粒の普通の人と群れたがる傾向にあるように見える。 そこでは「仲良しゴッコ」をつつがなく続ける暗黙のルールがあるようだ。 互いに気を使い、仲良しを演じ、空気を読み、楽しい振る舞いをすることや、もりあがること、定期的な儀式のように、何かにつけて同じメンバーで集まることなどがルールであり、ゆえに、本質をついてはならない決まりがあるようだ。 本質をえぐり、核心をつくと、そこで「仲良しゴッコ」が成り立たなくなるからである。 そこが、小粒の彼らのコンフォートゾーンであり、自分はこのグループに属しているから安心で、わたしは1人ではない、と思い、安心したいのだろう。 しかし、人間関係はあまり深くはならず、学生のサークルのように、 ある種の飲み友達の域を出ず、一時的な安心や楽しさ、馴れ合いの安らぎを与え合う仲間に止まる傾向がある。
他方、器の大きな人や、精神的に自立した、意識の高い人、できる人は、小粒の普通の人が好むような、精神的にまだ未熟な女の子の行動パターンになりがちな「仲良しゴッコ」を好まない。 彼らは、人間関係の質を求めるため、儀礼的な定期的に集まる儀式もしないし、仲良しゴッコのルールでは人と付き合わない。
群れて行動しないし、馴れ合いの関係と真の友情を完全に分けている。 未熟な女の子の行動パターンである「仲良しゴッコ」や、馴れ合いの関係を嫌う傾向が強い。 両者の違いは、明白だ。 個人が自立しているか、何かに依存しているか、の違いであり、 グループを作り、そこを自分の心の拠り所にして、コンフォートゾーンにしてしまう傾向は、
その人間が、基本的に精神的に自立しておらず、自分1人では勝負ができないし、何かに属して、誰かと群れることで、わたしは1人ではない、こんなに仲間がいると、幻想を信じたいからなのだ。 それだけ自分に自信がなく、自分1人では不安であり、なにかに属していないと安心できないからである。 だから、似たような小粒の普通の人たちと何かの適当なテーマでつながり、そこでグループをつくり、
幼稚な仲良しゴッコをしてしまう。 しかし、人間力のある個が自立した人や、器の大きな人、自分で勝負する魅力的な人は、そんな傾向は微塵もない。 「仲良しゴッコ」と化したコンフォートゾーンの中での、うわべの人間関係ではなく、真の友情を重んじる傾向が強い。 未熟な女の子の行動パターンの特徴だが、グループをつくり「仲良しゴッコ」が好きであるため、これを基に定期的に集まり、なにかのテーマで、とにかく同じメンバーで群れたがるのだ。 テーマは実はなんでも良くて、真の目的は、別のところにあるようだ。 それは、自分のグループをつくり、同じメンバーで群れていたい、1人では不安だからなのだ。

とても薄っぺらい人間関係である。 そのメンバーを仲間だと思いたいからであり、そんな浅いところでつながる仲間をつくり、そのグループに属していたら、わたしは1人ではないと安心したいためである。 ひたすら、自分の不安を否定できる場所を持ちたいという要求を満たすためだ。 だから、小粒の普通の人ほどグループをつくり、定期的に集まる儀式をしては、コンフォートゾーンの中のメンバーと、「仲良しゴッコ」を続けていく。 歳を重ねても、この傾向は、本人が自ら気づき、コンフォートゾーンから出て、自己改革を起こすまでは続くのだ。
何歳になっても、幼稚な人は、幼稚なままであり、 若くても、幼稚ではない人は、幼稚な真似はしないため、「仲良しゴッコ」などには縁がない。 この決定的な差は、顔に出る。雰囲気に出る。行動に出る。 両者の間には、大人と子供の差、では済まない決定的な差が生じている。 そのような、うわべの友達や人間関係ではなく、真の友情を重んじる傾向にある。 私がどう分析しようが、同じような意識と器のレベルの者同士が引き合わされていることは、事実である。

考えていただきたい。
仲良しゴッコのメンバーに、本当の友が1人でもいるのかを。 あなたが落ちぶれ、来月の支払いにも困れば、身銭を切り、あなたを助けてくれてくれるだろうか? そうしてあげたくても、あなたの仲良しゴッコのメンバーには、その力がないのではないだろうか? (そういう人だから、中よりごっこをして、同じ仲間と群れたがるのだから) あなたが人生で勝負をかけるとき、あなたのコンフォートゾーンのメンバーは、あなたに、必要な資金やものをあなたが必要とするときに黙って出してくれりのか? あなたが今の地位で無くなっても、あなたのことを世界中が責め立てても、
あなたをかばい、あなたの側にたってくれるだろうか? 組織や社会、世界の誰もがあなたを見捨てても、彼らはあなたを信じて、あなたについて来てくれるだろうか? それができる人が、真の友だちである。真の配偶者である。 そこまではとてもできないならば、あなたには真の友だちも、真の配偶者も、法律上の配偶者がいたにせよ、実は、両方いない事になる。 今一度、問うてみたい。 あなたが仲良しゴッコをするメンバーは、本当にあなたの友達ですか? 彼らはあなた以上の器の大きな人間ですか? それとも、同等か、自分以下の器しかない人間ですか? あなたのコンフォートゾーンは、どこですか? そこに、あなたを成長させてくれる人や、真の友や、真の配偶者はいますか? 仲良しゴッコも成長の段階では必要なステップであり、時には慰めになる。 しかし、そこにずっと止まり、自分が真の価値ある挑戦をしないでいるための、エキスキューズになっているとしたら? そのような仲良しゴッコのコンフォートゾーンでは、あなたの成長が止まるのではないだろうか? 私は、崇高なことをしているから、そこはコンフォートゾーンではない? 本当にそうですか? 最初の理念はどこに行きましたか? どういう戦いをしているんですか?  自分の安全地帯と確保しながら、どういう戦いができていると言うんですか? その活動が、一体、どういう影響を社会に与えましたか? それで、日本は良くなったんですか? 

どういう成果を出しましたか? その活動、もしかして、たんなる「仲良しごっこ」の延長線上で、自己満足と化しているのではないですか? あなたももうわかっているはずだ。 そろそろ・・・、あなたは、コンフォートゾーンから出て、真の価値ある挑戦をすべきではないだろうか?

自分の安全地帯を自ら破壊して、自分を成長させてくれる新しい人脈を開拓して、その人たちを中心に人間関係を再構築してみてはどうだろうか? それを善良なだけの普通の人に、わたしは問いたいのである。