坂の上零の「結婚おめでとう」とは限らない。
結婚と愛が一致しているのは、精神と経済が自立した個人だけ


今日は、結婚を愛の関係性について語りたい。

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冒頭から結論を言うと、
愛と結婚制度は、もちろん無関係。


当たり前のこと。

愛は、愛。結婚は、制度。別物だ。

愛がある結婚は理想だけど、それはなかなか続かない。


愛の終着が結婚とは限らないし、

そうであれば良いが、そうではない場合も多い。


現実には、多くの場合、(徳の女性側には)結婚は打算である場合が多いのではないだろうか?


日本中で、純粋な愛だけで結婚をしている女性が何人いるか、かなり少ないと思われる。


結婚に打算を入れず、愛だけで結婚を続けている女性は、日本ではかなりの少数派。


滅多にいない希少で、価値ある少数派の女性たち。



純粋な愛だけで、夫としてあなたを選んでくれた少数派の女性。


こういう心がきれいな女性をGETできたら、男はラッキー。


滅多にいないから。


たぶん、あなた(男性)の妻は、あなたを純粋に愛しているから、あなたと結婚生活を続けてるわけではないだろう。


こういう本当のことをズバリ言うと、悲しくなるだろが、事実そういうことが大半なので、仕方がない。

あなただけ、他の夫たちとは違い、妻から純粋に100%愛されているから、結婚を続けているということは無いのである。

仮に最初はそうであったとしても、時間とともに愛情も変わる。

人が成長し、変化してゆくからだ。

同じように変化していかないし、互いに学び合うべき魂の成長が終われば、基本的には、その関係は、ある意味において「そのステージを終了した」と言えると思う。

だから、男女の関係、夫婦の関係も、魂の成長の段階とレベルに合わせて、

本来なら、その時期ごとにパートナーが変わっていってもよいのである。


私は、その期間はだいたい長くても、10年ではないかと思う。


もちろん、一緒に成長していけるなら、生涯添い遂げるのもよいだろう。

しかし、生涯添い遂げねばならないという義務感から、

終わっている関係なのに、中身が形骸化して、本当の夫でも妻でもなくなっているのに、

形式だけの結婚を続けるような、大いなる時間の無駄と、我慢大会のさまが、理解しがたい。


日本人は我慢強い民だが、自分の人生で一番大事な、自分の魂の成長や愛情まで、

ここまでのものを我慢しなくてもいいのではないかと思う。


終わった関係なら、互いにその事実を認め、

互いの成長とさらなる発展と別の人生への旅立ちのために、

互いのためにさっさと離婚して、

再出発を祝いあうことがあってもよいはずだ。


これは、私の勝手な見解なので、事実かどうかわからない。



しかし、子供がある程度大きくなれば、子供だってわかってくれるはずだ。

終わった関係で、ずっと一緒にいられるよりは、互いに魅力ある人生を生きるために、別れる必要があれば、別れてもよいはずだ。


「あのね、お父さんと、お母さんは、愛し合ってお前を造ったが、

これからは別々の人生を生きるんだよ。

でも、それは憎しみ合ったからではなく、互いの学びが終わったからで、

別れても、ずっとお前の父と母であることには変わらないし、

そういう意味では、仲良くやっていくよ。

ただ人間の人生は、父と母の部分しかないわけではないので、

自分の人生と魂の成長のために、互いに自立した個人として、パパとママはそれぞれ別の人生を生きるよ。

でも、子供にとっては、母であり、父だから、そこの部分では、ちゃんとその役割を果たすよ。

みんな、自分の使命があり、それを成すために生まれている。

そして、魂を磨き、成長するために生まれている。

それを一緒にできるパートナーであることが重要だけれど、

今までの時期から、新しい時期に入るときが来たと言うことだよ。

一緒に行けたらよかったけれど、魂の成長のレベルがそれぞれ違うし、使命も違うから、

互いの魂の成長が違ってしまえば、一緒には次の人生にはいけないこともある。

その場合は、互いに、自分の学習や自分の魂のいる世界で修行をするので、別々の人生に行くだけのことなんだ。

互いに、魂の次元がまったく変わったら、また、使命を成す時が来たら、

過去に愛し合ったことがあったとしても、人生のステージが変われば、そこに来れるか来れないか、基準に満たなければ、

それまで一緒であっても、次の人生では、一緒にいられなくなることもあるんだよ」


まあ、これは私の勝手な見解なので、これが良いのかどうか答えはないし、わからない。

子供や普通の人が、この理屈を理解できないことも解っている。



しかし、これも「そういうもの」なので、片方に使命があり、人生が一気に変わるとき、次の世界についてこれない器であれば、

やはり一緒に次の世界に上がっていけなくなるのは、仕方がないこと。

どちらが悪いわけではない。

ただ、神の選別がある場合には、その基準に満たないのだから、そこには行けなくなるので、ふるい落とされていく。

それは仕方がないのである。

だから、どちらかがグンと成長して、さらに、使命を成す時が来た場合で、

片方のパートナーの魂の成長がそれに満たない場合、

その人はそれまでの人生で自分自身の魂の次元を上昇させて、

自分の器を大きくするしかなかった。


しかし、一緒の速度では成長しなかった。

こういうことはよくあります。


いいえ。こういうことしかないぐらい、一緒に成長してゆくことはむつかしいようです。


ですから、どちらかが一気に成長し、高次元に行ってしまう時、

片方のパートナーに同じように魂の成長が見られなかった場合、

離別が起こってしまうことは、ある意味、仕方がないことであり、

それでよいのです。


離別しなければ、次の世界に行けないので、離別が起こってきてしまいます。

意図した別居なのか、

仕事などでどちらかが別の国に住むことになるのか、

法的な離婚なのか、逃亡なのか、

結婚外で愛する人ができて、その人と一緒に暮らすのか、

人により、形はそれぞれですが、

要するに、そのパートナーとは一緒に暮らせない状態になってしまいます。


それは事実を言うと、世間の人の結婚は、純粋な愛だけではなく、

子育てと、生活費と、

責任と義務、

自分にとってこの人と一緒にいることが有利か否か、

その損得計算と、

「よくわからないけど、そういうものだから」の上に成り立っている。

さらに、厄介なのが、その上を、しがらみや世間体などががんじがらめにするので、

自分の自由や本音を言えるようで、言えない状況ができてしまう。

会社と同じで、家庭や家族内でも、ある種の役柄を演じたり、

支配されたり、支配したりする。

どちらが主導権を握るかなど、日本の家庭の場合は妻が主導権をにぎり、

夫を飼い犬に調教するというのが主流だが、

そういう状態になりがちだ。

そこに愛はない。

まあ、惰性がメイン。

愛情があれば、過剰な束縛や支配も許せるのでしょうが、

それを「幸せ」と呼べているうちは良いが、

それが、人の魂の成長を妨げている原因にもなるわけです。



現在の日本の結婚とは、愛をベースにしないで、制度の維持になってしまっているため、

個人の自由が制限され、家庭で愛に飢えて、孤独になってしまう場合ば多く、

結婚していながら、愛を、結婚外の人に求めることになっている場合ば多い。

結婚していたら、愛がなくなり、

結婚外で、愛が芽生えて、夫や妻以外の人と、愛し合うことになる。

その愛の関係があるから、すでに形骸化した、制度の維持だけの結婚生活を続けてゆける忍耐力ができるだろう。

結婚外で恋愛をしていなければ、とても結婚の味気無さのつらさに堪えてはいけない人が多い。

愛のない結婚。

打算と惰性がメインとなった、子育てだけのためにいる結婚。

夫とは、お金を持ってくる人であり、それだけ。


たんに義務と責任、支配と被支配だけの結婚生活・・・


これが日本の結婚の代表的な現実だが、

これでは、まるで生きたままセメントに入れらえて、

セメントに生身の肉体を固定されて、

徐々に、「愛情と責任」という名の下で、じわじわ窒息死させられてしまうようなものである。


日本では、セメント漬けにされる自虐の我慢大会を「結婚」と呼んでいるようだ。

どうりで、日本ではあまり幸せそうな、愛し合った夫婦がいないし、

日本の夫婦は世界一、セックスをしない、愛し合わない夫婦だ。

もちろん、夫婦間のセックスが、愛だけでするものではなく、欲求の解消もあるだろう。

しかし、愛がなくなれば、セックスしたくもなくなるのも事実。


したがって、現在の日本の歪な結婚は、形だけ、生活のためだけ、形式の維持だけ、結婚という制度の安定だけを得たいのであって、

愛がない。

さらに、魂の成長は、忘れ去られて、

なかみが生活の連続を維持するための、完全に形骸化している状態。

こういう本当のことを言うと、多くの未婚の方々をがっかりさせてしまうが、

すべての結婚が「おめでとう」ではないということを、しっかりと覚えておこう。

運命の人と一緒になれた結婚なら「おめでとう」なのだ。めでたいのだ。祝わねばならない。

しかし、それ以外の打算や惰性で、損得勘定の結果、結婚する場合、(日本の女性の多くがそうだが)、

その結婚のどこが「おめでとう」だろうか?

私は、そういう気持ちで結婚される男が哀れでならない。

これから、妻にたっぷり調教され、金も奪われ、給料も全部取られて、生涯の奴隷印を押されて、家畜にされていくというのに、

なにが「おめでとう」なんだろう?


まあ、世間を見渡すと、実に滑稽だ。

愛情だけで結婚が維持できている夫婦は少ないという事実がわかる。


実際、多くの法律上の夫婦は、すでに終わっている関係が多い。



そう、このように、残念だが、結婚は、愛ではなく、惰性と、妥協と、打算なのだ。


だから、結婚が永遠の愛だなんて、勘違いの夢を見ていると失望する。



だから、すべての結婚が「おめでとう」ではなく、結婚しているから愛があり、結婚が尊ばれるわけでもない。



運命の人と結ばれていないなら、その結婚には大した意味はないからだ。



いずれ破綻するか、すでに終わっている形骸化したものかもしれない。



愛が大切。愛し合うことが重要。

とはいえ、それも魂の成長や、自分の器の大きさの成長により、変わっていってしまう・・・

10代で愛し合った人と、30代で愛し合った人、

40代で愛し合った人は、まったく違うべきであり、違ってよい。

自分の成長に合わせて、相手の質も変わる。

それなのに、結婚したら、ずっと同じ人を一生涯・・・・というのは、本来の成長の理屈にはあっていない。


男と女がその段階では愛し合っていても、

そのあと、一生涯、同じように成長していける確率は低いから。


愛があれども、互いに成長が終われば、

つまり長くて10年もしない間には、

初めは愛情があっても、それも色褪せることもある。



お金のことや生活のこと、子供のこと、様々な事で、

いざこざやすれ違いが多くなり、

最初にあったい愛情もいずれ無くなり、



結婚生活が愛や、互いの魂を成長し合う内容ではなくなることが大半だと思う。



では、結婚とは何なのか?



坂の上零が、鋭く指摘する!

それは、NO.2の次号に続く。お楽しみに!